はじめまして。ぼくの名前はしばたまる(@yabaikagu)。
苗字がしばたで名前がまる。
本名ではないけれど、
あまりに周りがそう呼ぶので時々どっちが本名か分からなくなる。
話しかける際はしばたまる、もしくはまると呼んでほしい。
ぼくは巨匠になりたい。
クリエイターがエモかっこよくみせる時よくやるやつ
ぼくは今24歳。大学院を卒業したらもうこんな年齢になっていた。そして今実家の父親から受け継がれた学習机の上で雑にパソコンを開きこの文章を書いている。
もしやと思い調べてみると日本では15〜34歳までの非労働力人口のうち通学・家事を行っていない者のことをニートと表現するらしく、個人事業主、フリーランスと息巻いて置きながら、1年半前から始めたブログの細やかな収益で年金と国民健康保険、奨学金返済代、携帯代を払うだけのぼくは該当するのではないか。そんな感覚に襲われている。
おそらく定義上ぼくはニートなのである。しかしニートではない。でも、ニートではないと言い張れない自分もいる。そんな曖昧な状態で宙吊りな日常を送りながら自身を綴っている最中だ。
そんなぼくにも1つの目標がある。
それは建築家として巨匠になりたい。しばたまるは巨匠になりたいのだ。
そしてぼくの言うそれは建物を建てたお金でご飯を食べることではない。建築家として飯を食い生きていきたいという目標がある。
ここではそんなぼくの歴史や現状の話をさせてほしい。つまりは自己紹介だ。
建物には興味がない。
建物には興味がない。産まれてからもそうだし、設計を勉強するために大学院まで行ったけれども、結局のところ興味がわかなかった。
だから、今ある有名な建物が取り壊されるなんて話を聞いても全く悲しくないし、国の財産だとか、保存すべきだと感じたことは1ミリもない。
でも、建築はすごく好きなのだ。
そもそも、ぼくは6年前に親友の願書を丸写ししたことからまったく興味のなかった建築学科に入学し、大学2年まではサークルづけの生活。
ある日、必修だった設計の授業で「単位を取るには点数が足らない、設計系の研究室に入るなら単位をやる」と言われた。そんな宣告をされたのは自邸を設計するという課題。もちろん模型や図面を提出したがそれほど出来が悪かったらしい。でもぼくは驚かなかった。なんせそれまでの課題全てが最下位だったのだからいつものことだ。
特に設計に興味があるわけでもなかったが、そうしたことがきっかけで意匠系の研究室に入り、建築の設計やデザインに取り組まざるを得ない環境での生活が始まった。まぁ意匠系の教授は優しそうだったし、特にこだわりもなかったのでそれで良かった。
それからと言うもの研究室で過ごしているだけでぼくの耳には建築の話が入ってくるようになったし、実際に設計する経験もいくつかした。またみんなが行くからと建築家と呼ばれる人の講演会を聞いたり、ごくごくたまにだが建物を見に行く日もあった。
すると次第にぼくの中で変化が起きた。相変わらず建物には興味はないものの、建物を形にするまでの考えやその過程を紐解く行為を面白いと感じるようになった。それがどんな趣旨で作られているのか、柱はなぜその太さで天井面の素材はなぜ木毛セメント板なのかを想像するのが楽しかったのだ。
それと同時にあらゆるものに必然とも言えるような形体を付加させることのできる建築家という職業は面白いとも感じた。
ちなみにぼくが建物を見ている時の頭の中をそのまま映像にしたものがこれ。
実際にぼくの感じる通りの意図で作られているかは知る由もないけれど、こうやってそれぞれに目をやりながら妄想にふける時間は難解な連立方程式を解いた瞬間を連続的に体験しているような感覚になる。多少幼稚かもしれないがほんとにそう感じている。
そんな感覚が芽生えた所でぼくの学生生活はあっという間に4年目を迎えた。
4年になると卒業設計に取り組む。もちろんぼくもその1人で、これまで真面目に何かに取り組んだ経験がない自分でもこの時ばかりは真剣に取り組んだ気がする。
その結果。
プレゼンの時の様子
JIA東海学生卒業設計コンクール 入賞(東海圏の学生の中から選出される賞)
本大学卒業設計展 アーキテクト賞 受賞(本大学の学生内からゲスト建築家7名により1名選ばれる賞)
中部卒業設計展 ファイナリスト賞 総合資格賞 受賞 (東海圏の中からベスト10に選ばれる賞・スポンサーから1名選ばれる賞)
こんな感じに賞をちょっぴり頂いた。
また卒業設計の日本一決定戦でも50選には選んでもらえたので三流大学の中で最下位だったぼくとしてそれなりに満足の行く結果となった。
まさに順風満帆だと思う。
建築で食べていく。
とくに意味はないけど壁によりそっとけば切なげに見えるやつ
そしてぼくは大学院生になった。
すでに4年生の頃は「建築を仕事にしたい」を考えるようになっていた。
良い大学院に進学し、大企業の設計部に行くか、有名なアトリエに行く。そして3~6年ほど実務経験を積んだあと気に入った地域で設計事務所を開き独立しよう。そう思っていたのだが大学院受験は失敗。結局、かれこれ4年も見続けた景色をもう2年も見続けることになった。
でも今思えばそれが将来を冷静に考えさせるきっかけになったのかもしれない。
もちろん焦りもあったし。
しかし、今の三流大学を卒業した所でいくらちょっとした成績を残していたとしても大手の企業の設計部に行くことや有名なアトリエに行くことは難しいと感じていた。
さらに「建築でごはんを食べて行きたい」と思う気持ちは強くなったけれども、まだ建築で食べて行くとはどういうことかわからない現状がぼくを余計に不安にさせていた。
かっこわるい話だけど学歴が良ければ、いい企業やアトリエに入れると思ってたし、そこで設計を勉強すれば建築家になれると思ってた。
もちろんそんな甘い話はあるわけながない。建物を建てる知識は身につくかもしれないけど、もっと根本的なものがぼくには欠けてることに気づいた。
どうすればなれるのか。
これまで「どうすれば建築家になれるか」を考えてきた。
ぼくの持つ解像度では有名な建築家はすごい大学に進み、なんか海外とかに留学して、有名な設計事務所に入り、独立する。
とりあえずそのレールになんとか途中乗車すればいいのかと大学3年末には考えていた。
でも、実際それは結果的に見えやすい形で現れている共通点であって、真理ではなかった。
あいにくぼくの現状がそのレールへの乗車は難しいと判断した頃、
「どうすればなれるか」という手法や道筋の模索から偶然にも「どんな建築家になりたいか」を考えさせ始めるきっかけになった。
どんな建築家になりたいか。
あなたの好きな建築家はだれですか?
そんな時浮かんだこの質問。建築学科に入ってなんどされただろうか。
ぼくは元々建物が好きなわけでも、特別何かを建てたいと思っていた熱意を元に入学したわけでもなく、興味のない所からたまたま建築を考える瞬間が楽しいと思い、建築家になろうと思っただけ。建築家について興味をもった経験は一度もない。
もっと言えば、国語力を持ち合わせてないぼくには建築家の話は難しい。もちろん建築家の本を読もうとしたこともあるけれど、最後にはすこし遠い存在に感じることがおおかった。
自分は近くありたいと思った。
そしてぼくはブログを始めた。理由は一言で言い表せられるものではないけれど、自分が思う建築家になるためにはたくさんの人に話を聞いてもらえるに越したことはない。
そうして2017年10月から1年半。まだ明確な景色は見えない中、記事を書いたり、お金を稼いでみたり、二拠点生活をしておくってみたり、建築ではない人に会ってみたり、そうやって建築の設計を勉強しながら、建築とは関係のない日々が大学院生活と共に幕を閉じた。
こんなにも形の見えないスタディは初めてだった。
この経験の中でどんな建築家になりたいか、明確に見えたかどうかは分からない。ただ、建物を建てるために建築家を目指す人がいるなら、建てない建築家にでもなってやろう。
そう思うようになった。
正直、ふっと浮かんだ思い付きかもしれない。でもなんか頭から離れない。まぁ世の中には建物がたくさんあるし、建てる以外にも建築家ができることはある。それは小さいことかもしれないけれど、そこを1つ1つやった結果、ぼくは建築家と呼んでもらえるかもしれない。巨匠になっているかもしれない。
そう思う。
今言えるのはこんな感じ。
おいおい浅いな、ぼくもそう思う。でもきっかけはそんなもの。
文章は書いたそばから過去になるし、君がこの文章を読んでいる頃は別のことをしてるかもしれない。だから気が向いたらでいい。今のぼくに目を向けてほしい。
この文章を読み終えた後、まさにこの文章を書いているぼくと君が今から見るぼくとでは違うかもしれない。違和感があるかもしれない。でもそれはぼくが前に進んでいる証拠。
そしていつか、この文章が自己紹介としての力を失うことが今の目標。
そんな感じで終わります。
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【追記】あれから3年が経ちました。
このプロフィールを書いた時点から約3年が経った。
この自己紹介が意味を失うことを目標にがむしゃらにやってきた。
マツコさんとTVで共演したことで、ようやく両親は大学院まで行ったのに就職しなかった自分を認めてくれた。
今では一人暮らしをしながら、コンビニで少し高めのおにぎりを躊躇せずに買うことができる。
月の国民保険料を払うのでやっとで、お昼は焼きとりを1本だけ買っていた僕としては大きな進歩だ。
社会経験ゼロの建築学生だったぼくのフリーランス生活3年間は常に失敗続きだったけど、
結果として3年間で1276万円稼ぐことができた。
食べていけるようになった。
そしてフリーランスを辞め、4年目からは法人として新たにスタートを切ろうとしている。
そんな節目として、自分の3年間を振り返るために、その道のりやその記録を動画にすることにした。